Boys, be ambitious ➁

Boys, be ambitious ➁

クラーク博士の名言は「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)!」ですが、このフレーズは有名で知ってる人も多いと思います。が、この名言には続きがあるんです。以前に説明した「Boys, be ambitious like this old man(この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ)」とはまた少し違った続きになります。まずはその続きを紹介しましょう。
Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent

クラーク博士の一生涯!

クラーク博士の一生涯!

クラーク博士といえば「青年よ!大師を抱け」という名言を誕生させた人。というイメージが強くありますよね?今も尚、この言葉は生き続けていますし、博士の銅像が設置されているスポットがあったりと、“これからも忘れてはいけない人”ということが伝わってきますね^^しかしそれだけで、彼のことを詳しく知らない方がほとんどなのではないでしょうか。クラーク博士は、1826年7月31日に、マサチューセッツ州アッシュフィールドで誕生しました。なんと、父は医者。そして、まだ博士が少年だった頃、マサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越したんだそう。それから「ウィリストン神学校」に通い、1844年「アマースト大学」へ入学して、順調に4年後卒業しました。大学を卒業したのにもかかわらず、化学と植物学をもっと学びたいがためにドイツの「ゲッティンゲン大学」へ入学したんだそう。その頃から成績はとても優秀だったので、その後はあっという間に大学の教授へと登りつめました。まだまだ若い20代にして“教授”になれるなんて、本当に天才だったことが分かりますね^^教授として、化学を主に教えていましたが、その後“動物学”“植物学”を含め、計3つの専門を教えるという大活躍を果たしました。その後も少しの失敗はありつつも、「マサチューセッツ農科大学」(今のマサチューセッツ大学)の第3代学長に就任するまでに昇格したんですよ~!!3代目にはなっていますが、実際、初代と2代目は開学前に辞任したため、クラーク博士が初代になるんだそう。学長にまで登りつめるも“南北戦争”によって、博士の優秀なキャリアは一旦中断となってしまいます。このクラーク博士、札幌にも訪れたことがあるんですよ~!!数日で帰国した後は、学長を辞任し、会社を立ち上げるが破産したりと、あまりうまくいってない日々でした。その後に“心臓病”を発症し、寝たきりの生活。。。人生の半分は、エスカレートのように“良い方”へと登りつめていたのに、後半は辛い日々だったんですね。結果、59歳という若さでこの世を去ってしまいました。そんな多忙な人生だった博士ですが、1853年に“ハリエット・ウィリストン”という方と結婚し、妻との間に11人もの子供を授かることが出来たんです!凄いですよね。いわゆる大家族です^^しかし、その内3人は生後1年以内に息を引き取ってしまうという可愛そうな事もあったよう。その後、クラーク博士の息子となる“アサートン・クラーク”は、マサチューセッツ農科大学の理事になったり、“ヒューバート・クラーク”がハーバード大学で動物学を研究するなど、父の才能を受け継いで子供たちが活躍することとなります。これからも“クラーク博士”は、私たちの中で生き続けていくんですね^^

故郷に帰ったクラーク博士のその後

故郷に帰ったクラーク博士のその後

「ボーイス・ビー・アンビシャス」(少年よ大志を抱け!)の言葉を残しアメリカに帰ったクラーク博士の故郷はボストン郊外にあるアムハーストです。アムハーストに帰ってからのクラーク博士は必ずしも幸せではなかったようです。
1977年 故郷に帰ってからのクラークの晩年は失意の連続でした。大学を辞任後に鉱山経営(クラーク・ボスウェル社)を始めたが失敗し、倒産をめぐる裁判に頭を悩まされる。
1882年 心臓病で倒れ、病床での生活を送るようになる。
1886年 59歳で病没。(60歳の誕生日目前に亡くなる)
1890年 キャンパス内にあったクラーク邸が焼失、妻や子供たちと住んでいて豪邸だったという。
1986年 クラーク博士没後100年の記念式典が行われた際にクラークメモリアルの計画の話が持ち上がりました。クラーク博士の家があったキャンパスの東側の土地を中心に、日本風の記念庭園を造るというものです。クラーク邸があった土地は小高い丘の上にあり、キャンパス全体を見渡すことができ、丘の周りにはU MASSの学生寮が並んでいます。
U MASSのグリンビー教授は1970年代に姉妹大学提携を結んだ北海道大学との共同製作を提案し、造園を教えている浅川北海道大学助教授と北海道大学出身の造園家・高野文影の協力を得ることになりました。3人の指導のもと、U MASS卒業生のトッド=リチャードソンの設計が選ばれました。
1991年10月17日メモリアルが完成。U MASS総長、北海道大学学長らによってクラーク博士に捧げられました。
メモリアルの周りには円形の黒い壁があり、東側の部分はクラーク邸のシルエットで、西側は北海道大学農学部の建物のシルエットになっています。円形の壁の中はベンチになっていて座ることができ、U MASSのキャンパスに北海道大学のイメージを重ね合わせるように工夫されているものです。
メモリアルの入り口に2つ、さらに中心にも1つ大きい御影石が使われています。中央に置かれた大きい石からは放射線状に出ている大きい細い道がデザインされていて、これはクラーク博士が過去・現在・未来に及ぼした影響を表しているのだそうです。
クラーク博士記念庭園では2000年9月13日に北海道・マサチューセッツ州姉妹提携10周年を記念した式典も行われました。
今なお多くの日本人に知られている「少年よ大志をいだけ」を発したクラーク博士の教えを直接受けた学生達からは数々のすぐれた人材が輩出し、クラークの播いた種は着実に芽を出し続けました。その後、札幌農学校は力強い発展を続け、現在は国立の名門・北海道大学となっています。

お雇い外国人

クラーク博士はどんな人?何をした人?という問いに答える際、キーワードの一つとなっているのが「お雇い外国人」です。
「お雇い外国人」とは、幕末~明治時代の近代化に向けた時代の中で、欧米の先進技術や学問等を取り入れるために雇われた主に欧米人のことを言います。政府の新産業育成のための政策を指す殖産興業を目的として多くの外国人が来日しました。クラーク博士は「お雇い外国人」の中でも代名詞的な存在です。
明治政府が雇用した外国人の約半数は、イギリス人でした。鉄道技術者で日本の鉄道の導入を指導したとされるあったエドモンド・モレルや、建築家で政府関連の建物の設計を手掛けたジョサイア・コンドルなどが挙げられます。
また、アメリカ人は教育と開拓の分野で多く活動し、フランス人は同じく約半数が軍への雇用だったようです。
雇用された人数がピークに達したのが1874年~1875年(明治7~8年)で、520人ほどでした。その後数は減りましたが、明治年間を通して3000人前後であろうと言われています。
ちなみに、その報酬は大変高額なものだったことが知られており、当時はまだ身分格差が著しい国内賃金水準からみても破格の値段だったそうです。
 
ここでは、クラーク博士以外の「お雇い外国人」とされる日本の産業の発展に貢献した外国人3人についてご紹介したいと思います。
【エドワード・シルベスター・モース】
アメリカの動物学者で、海洋生物研究のため、東京大学教授として来日しました。ダーウィンの進化論を紹介し、大森貝塚の発見・発掘を行い、日本の考古学・人類学のその後に大きな貢献をしました。また、日本研究家としても知られ、日本美術なども深く研究していたとされます。
【エルヴィン・フォン・ベルツ】
ドイツの医師で、東京医学校の教室して来日しました。つつが虫病などの寄生虫、脚気など広範囲に及ぶ研究を行い、日本の医学界の発展に尽くしました。27年間医学を教え日本滞在は29年にも及びました。日本人女性と結婚し、訪れた草津温泉についての研究にも力を注ぎました。草津温泉が名湯であることが世界的に知られるきっかけを作ったとされています。
【ギュスターヴ・エミール・ボアソナード】
フランスの法学者で、刑法・治罪法・民法を草案しました。当時の日本にとって急務の課題である「不平等条約の撤廃」のため、日本国内の法整備に尽力し大きな貢献を果たしました。「日本近代法の父」と呼ばれています。

クラーク博士の前任者 ホーレス・ケプロン

クラーク博士が札幌農学校の初代学長を務めたことはすでに記事で書いていますが、では、その札幌農学校を開学するまでの準備などをしたのもクラーク博士でしょうか?
答えはNOです。札幌農学校の開学について尽力したのはホーレス・ケプロンです。
開拓使時代を顧問として来日し、当時北海道にいた外国人の統領となっていました。その後に来日し、名言を残したクラーク博士がとても有名なため陰に隠れた印象ですが、このホーレス・ケプロンが日本の殖産興業に大きな営業を与えたことは間違いありません。
ここでは、クラーク博士の活躍には欠かせない存在であったホーレス・ケプロンについて少しご紹介したいと思います。
ホーレス・ケプロンは、もともとはアメリカ合衆国の軍人で、マサチューセッツ州の裕福な家庭で生まれ育ちました。
南北戦争で従軍後、アメリカ政府の農務長官であった時に、日本からアメリカにわたっていた黒田清隆の誘いにより、1871年に来日、開拓使顧問となりました。この時のケプロンは67歳!現役の農務長官がその職を捨ててまで、遠く日本・北海道の開拓に参加するという壮大なプロジェクトが始まったのです。
日本では北海道の視察を熱心に行い、多くの事業を推進しました。その内容は多岐にわたり、1875年に帰国する間、母国から農業、工業、鉱業、医学において専門家を日本に呼び寄せ、北海道の開拓に貢献したといいます。北海道の気候上、寒くイネが育たないため、麦をつくることを勧め、パン食を推進しました。この麦作の奨励により、後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)ができたとも言われます。
来日するにあたり、ケプロンは果物の種や苗を持ってきました。今現在、私たちが当たり前に口にしているフルーツは、ケプロンによって日本にやってきたものも多いのです。
魚の加工から缶詰の生産・輸出、馬車道の星美など、ケプロンの進言により発展したとされるものがあります。
そして、「そうだったの?!」と思わず言ってしまいそうですが、クリスマスケーキ!あの生クリームの白い色で包まれた丸いケーキの誕生にも、ホーレス・ケプロンが関わっているようです。
今日の北海道の発展に多くの足跡を残したホーレス・ケプロンですが、来日に向けて説得したとされる黒田清隆と並んで像が建立されています。札幌大通公園の西10丁目にありますので、クラーク博士像とあわせて立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
その後、ホーレス・ケプロンの貢献により美味しくいただける北海道の食べ物も、お楽しみくださいね♪
 

クラーク博士と松下幸之助の「大志」

何かを決断する時、背中を押してもらえる言葉があった、という経験はありませんか?誰かに相談したり、何かの本を読んだりして、様々な人の言葉に触れています。その言葉に救われることが少なくありません。一つの言葉でも、その人にとって大切にし糧として頑張れる、言葉にはそんな力があるのかもしれません。 かの有名なクラーク博士と松下幸之助は、二人とも「大志」の入った言葉を残しました。 クラーク博士の「青年よ 大志を抱け」は誰もが一度は耳にしたことがあるでしょう。北海道を離れる際、別れ際、教え子たちに残したとされる有名な言葉です。当初はこの言葉について正確に記録したものがなかったのですが、後に続きがあったことがわかります。 現文は「Boys, be ambitious like this old man」日本語では、「青年よ 大志を抱け この老人のように」老人はクラーク博士自身を指したものと言われています。 私のように、青年であるあなたたちも、私利私欲・名声のためではなく人としてあるべき姿を追求し、成し遂げるために人生を全うしなさい。そんなメッセージが込められているようです。 また、松下幸之助はこのような言葉を残しました。 「志を立てよう。本気になって、真剣に志を立てよう。生命をかけるほどの思いで志を立てよう。志を立てれば、事はもはや半ばは達せられたといってよい。志を立てるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道は必ずひらけるのである。」(「道をひらく」松下幸之助 PHP出版より) 本来「大志」というのは、目先の目標ではなく、人生をかけるような大きな目標のことをいいます。松下幸之助は、志を持つことについて、クラーク博士の言葉を引用し、自身の考えを説いたとのことです。やはり、松下幸之助の心にも、クラーク博士の言葉は刻まれていたのです。 昔から著名な人々の「名言」は語り継がれています。彼らの残してきた言葉を、現代の人々はどのように受け止め人生の教訓にしてくのでしょうか。今の社会では「大志」という言葉は日常的に使用するものではなく、このような名言を引用するような場面で用いられることが多いでしょう。それでも、いつまでもメッセージとしての力を持ち、時代・世代を超えて続いています。この厳しい時代にも、強い「大志」をもっていられる自分でありたい。そんな思いが現代の人々にあるのかもしれません。

[札幌] 羊ヶ丘展望台を遊びつくす!

北海道・札幌にはいくつもの観光スポットがありますが、その中でも人気の一つである「羊ケ丘展望台」をご紹介します。 「羊ケ丘展望台」と聞いて、【「青年よ 大志を抱け」で有名なクラーク博士の銅像がある場所】と思っている方も多いのではないでしょうか。ところが、銅像だけではないんです。 クラーク像と一緒に、ポーズを決めて写真を撮るだけ…ではもったいない。せっかくならこの展望台を満喫しましょう。 まず、名前の通り「羊」。そう広大な敷地の牧草を食べて育つ羊たちを見ることができます。近所に、羊を間近で見れる場所がある…なんて方は少ないですよね。あのふさふさでやわらかそうな毛を見るだけで、顔がゆるんでしまいそうなほど、可愛い羊たちに会えますよ。 毎年ゴールデンウィークに行われる「春祭り」のイベントでは、羊の毛刈りが行われ見学することができます。冬は寒く外に出てこない羊たちも、夏に向けてさっぱり衣替えです。なかなか間近で、毛刈りを見ることはできないので、特に動物好きのお子様などにお勧めです。ゴールデンウィークには羊の毛刈りのほかにも、親子で楽しめるイベントが盛りだくさんですので満喫できますよ。 広い敷地を歩き回ると、予想以上に疲れはたまってしまうと思います。そんな時は「羊ケ丘ほっと足湯」に向かいましょう。クラーク像の横のスペースにあり、サービスの一環として設置されています。そして料金は無料です!定山渓温泉や十勝川温泉など、各地の温泉水が出張してくれますので、そのたびに違う温泉水が楽しめます。。(※温泉水を使用しないときは、水道水の場合もあります。) そして、帰る前には「大志の誓い」もお忘れなく。クラーク博士にちなみ、大きな夢・希望・願いを思いを込めて紙に記し、博士銅像の下に置かれたポストに投函し祈願します。神社へのお参りならぬ、クラーク博士参りですね。この紙はどうなるの?と不思議に思いますが、ご安心ください。札幌観光協会があなたの思いとともに、永久保存してくれます。そしてあなたが再びこの展望台に来た時には、当時の「大志の誓い」を見ることができます。子どものころに投函した誓いに、大人になってから再会しにいく…なんてタイムカプセルのようですね。 いかがでしょうか、羊ケ丘展望台。年中無休で営業していますが、季節や施設によって営業時間は変わりますので調べてからお出かけくださいね。 入場料:大人 520円、小・中学生 300円、未就学児無料大志の誓い:1枚100円(保管料)

チャレンジ精神

北海道大学で功績を残したクラーク博士ですが、教鞭を取っていたのはわずか9ヶ月でした。短い赴任期間でしたが、農学を教えるだけでなく生徒にキリスト信仰を広めるなどその影響力は大きなものでした。クラーク博士は勉学に対してもアグレッシブだったようで、次のような破天荒なエピソードが残されています。1877年(明治10年)の1月末、クラーク博士は学生16人を連れて厳寒の札幌手稲山に登りました。学生達はまだ17、8歳。51歳のクラーク博士は南北戦争に従軍したこともある文武両道の人だったためか、雪山に戸惑う学生達の先頭に立って進んだそうです。途中、雪に覆われた大木を発見するとその前で止まり、博士は背の高い生徒に、自分の肩に乗って先端のコケを採取するよう命じます。当時は教師への尊敬の念が強かった時代。「三尺下がって師の影を踏まず」という言葉があったほど、教師は敬われていました。学生は当然躊躇しましたが、クラーク博士は「この大木は夏には登れないが、冬の今ならてっぺんにまで届く。あの梢に珍種のコケがついているのが見えるだろう。今がそれを採集できる絶好の時なのだ。」と説得し、長靴を履いたままの学生を肩に上がらせたそうです。採取後、下山時には天候が悪化し、一行は山中で立ち往生します。学生達は冬山はおろか登山自体が初めての者ばかり。クラーク博士は最後尾で彼らを励ましながら無事に下山を果たしました。現代なら親や社会から批難が集中しそうな無謀な登山でしたが、博士は心身の鍛錬を信念に、この自然観察授業を行ったのです。後にわかったことですが、その日採集した中には新発見のコケも含まれていたそうです。「新しい発見をするためには新しいチャレンジに挑まなければならない」「危険も緊張もあるから鍛錬される。心も燃える。」そう信念を持ち、クラーク博士は自ら危険の先頭に立ち日々実践されました。その勇敢な姿勢と学問への飽くなき探究心が、学生に多くの刺激と感動を与え、博士が慕われた所以なのでしょう。

クラーク博士とカレー

クラーク博士とカレーの関係については有名な話かもしれませんね。まず、カレーを日本に広めたのはクラーク博士だと言う説があります。
しかし、吉田よし子の『カレーなる物語』(1992年)によると、北海道大学には当時のカレーに関する記録は1877年9月(クラーク離日後)のカレー粉3ダースの納入記録しか残っていなかったそうです。そしてそれもクラークの命令もあったのかどうかは不明とされています。そうなると、クラーク博士がカレーを広めた話も本当かどうか怪しくなってきますね。
でも、1881年の寮食にはパンと肉、ライスカレーが隔日で提供されていたことが確認されています。隔日とはまたすごい凝りようですよね。普通にしていてこの献立になるかは微妙なところです……。もしかしたら、クラーク博士の方針かもしれないですね。
また、クラーク博士は学生に対しパン食を推進しました。そのためカレー以外のメニューの時の米飯を禁じたと言われています。カレーなら米を食べても良いって、なんだか面白いですね。やっぱり、カレーはご飯に合いますものね。
そのことは、クラークとカレーを結びつける文献として最も古いとされる『恵迪寮史』(1933年)に明記されています。
また北海道立文書館発行『赤れんが』81号(1984年)によると、開拓使東京事務所ではクラーク博士訪日前の1872年からお雇い外国人向けにライスカレーやコーヒーが提供されていたそうです。
「ライスカレー」という語はクラークが作ったものだという説もあります。しかしクラーク訪日前の開拓使の公文書『明治五年 開拓使公文録 八』(1872年)で、「タイスカレイ」という語が使われており、これもライスカレーの意なので、これも事実関係は曖昧なままです。
そもそも北海道でパン食を推進したのは、クラークの前任者とされる開拓使顧問のホーレス・ケプロンであるとされ、札幌農学校とカレーとの関係はクラーク博士以前の時代に遡る可能性もあるそうです。
 でもやはり、有名で有力なのは、クラーク博士とカレーの関係です!
と、いうわけで北海道大学構内にある「エンレイソウ」という、おしゃれなレストランではクラークカレーなるものを提供しています。大学外部の人も利用出来るお店なので、安心してください。学生じゃなくても食べることができますよ。
今や日本の国民食とまで言われている「カレーライス」ですが、それを広めたのは米を嫌う外国人だったと思うと不思議ですね。あんなにご飯と愛称抜群なものは類を見ないですからね……。
でも私、カレーをご飯で食べるのと同じくらい、パンで食べるのも好きなんです。本当に、どっちが良いかはその日の気分次第なので、特にこだわりはありませんが、どっちも大好きです。私の場合、カレーも米食禁止になっても大丈夫かもしれません。
さて話を戻して、クラークカレーは赤・黄・緑・青と色とりどりの野菜や肉、じゃがいもがゴロゴロと大きくカットされて入っているカレーです。具は素揚げされたパプリカ・ピーマン・ジャガイモ・人参・ズッキーニ・茄子・ブロッコリー、小豆と大豆のフリットと贅沢な豊富さです。見た目も綺麗で、どこか日本離れしたところもある気がします。
ルーにはりんごかレーズンのような果物の甘みと、ちょっとしたスパイスの辛さが合わさり、絶妙なハーモニーを奏でています。おそらくルーは甘口ですが、その中にもスパイシーさが混ざり、味を引き締めてくれます。
最後の注目はずばりお肉です!!お肉にはローストビーフが使われています!柔らかくてとっても美味しいとの評判をよく耳にしました。実はここ大学構内にありますが、札幌グランドホテルの館外レストランなのです。そのため徹底的に食材や調理方法にこだわっているのです。
予約もできるそうですが、お昼頃から時間をずらせばそのままでも入れるかもしれません。学生の授業の時間を狙っていくのが一番良いと思いますよ。ただし平日のみの営業となりますのでご注意下さい。
クラークカレーはサラダと飲み物付きで1,260円です。他にも月替わりランチセット(Aセットは魚系1,050円・Bセットは肉系1,200円、サラダ、ドリンク付き)などがあります。大学で食べるカレーにしてはリッチですが、ホテルのカレーだと思うとかなり安く食べられますよ。ここまで足を運べば、お手頃なお値段で本格的なホテルの味を楽しむことができるのです。
カレーの薬味も豊富なので最後まで飽きさせない、そんな工夫もされていました。せっかくだから、いろいろ試して自分のお気に入りの調合を見付けたいものです。
店内は大きな窓に囲まれており、窓から見える木々は活き活きとしています。眺めていても本当に清々しく、食事がますます美味しくなります。
店員さんもさすがホテル仕込みで、よく気が付く優しい接客をしてくれます。にリラックスした状態で食事を楽しむことができるので、贅沢な一時を堪能することができますよ。
 このレストランエルムの場所は正門から歩いて5~7分です。学校内でこの距離って……やはり広いですね、北海道大学……。

ウィリアム・ペン・ブルックス

札幌農学校に赴任したウィリアム・スミス・クラーク博士が帰国すると、その後任に就いたのが、ウィリアム・P・ブルックスでした。
ブルックスは北海道に西洋野菜を持ち込み、栽培方法を学生や近郊農家の人々に指導しました。
タマネギをはじめ、ジャガイモ、トウモロコシ、キャベツ、トマト、ニンジン、エンダイブ、コールラビ、セイヨウタンポポなどを日本にもたらしたのはブルックスなのです。
ブルックスは1851年11月19日、アメリカ、マサチューセッツ州にあるサウス・シチュエットの農家に生まれました。1871年にマサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)に入学します。在学中はクラークのもとで植物生理学の実験を行いました。1875年に農科大学を卒業すると大学院に進んで化学と植物学を専攻しました。
1877年日本政府よりを招聘受けて来日します。札幌農学校の農学教師・校園監督としてクラークの仕事を引き継ぐこととなりました。農学講義、農学実習、植物学などを担当します。学生には「ブル先生」の愛称で親しまれていたそうです。
赴任中、一時帰国した際に結婚すると夫人と共に札幌で暮らし、その間に娘と息子が生まれています。1888年10月、家族とともにアメリカへ帰国するまでブルックスは札幌農学校に12年間勤務しました。離任時に日本政府より勲四等旭日小綬章を授与されています。帰国後、母校マサチューセッツ農科大学の農学教授に就任し、マサチューセッツ州農業試験場技師もつとめました。1896年にはドイツへ留学し、ハレ大学で博士号を取得しています。帰国後は農業試験場の所長に就任。その後1921年まで同試験場の顧問を務めました。リタイア後は家庭菜園を楽しんだようです。北海道旅行で広大な畑を見る機会があったら、ブルックスのことを思い出してください。