クラーク博士の北海道滞在は8ヶ月と短いものでしたが、その間に多くのものを残してくれたからこそ今でもその名前が語り継がれ、さまざまな場所がゆかりの地となり、たくさんの銅像も作られているのだと思います。
クラーク博士が北海道へと来ることになったのは、新島襄さんの紹介により日本政府の熱烈な要請を受けて、マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して、1876年7月に札幌農学校教頭に赴任することとなったのです。
今回は、クラーク博士の来日を実現した立役者「新島 襄(にいじま じょう)」さんについてご紹介していきましょう。
新島襄さんですが、本名を「七五三太(しめた)」といい、この名前は祖父の弁治が女の子が4人続いた後の初の男の子の誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説があるそうです。
元服した後に、友人から貰ったアメリカの地図書からアメリカの制度に触れ、憧れを持つようになります。その後、幕府の軍艦操練所で洋学を学び、ある時、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出会い「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意し、当時は禁止されていた海外渡航を思い立つのです。
箱館港から米船ベルリン号で出国し、上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換え、船中で船長のホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから、その後もその名を使い始め、帰国後は「譲」のちに「襄」と名乗ったそうです。
1865年7月にボストンに着き、ワイルド・ローヴァー号の船主・A.ハーディー夫妻の援助をうけて、フィリップス・アカデミーに入学することができました。
1867年にフィリップス・アカデミーを卒業し、1870年には、アイビーリーグと同等レベルのリベラルアーツカレッジのトップ3のひとつで、リトルアイビーと呼ばれる名門校アマースト大学を卒業したりし、これは日本人初の学士の学位取得でした。名門校を卒業するなんてとっても優秀な方だったんですね^^
アマースト大学では、クラーク博士から化学の授業を受けていて、クラーク博士にとっては最初の日本人学生であり、この縁でクラーク博士が来日することとなったのです。
帰国後は同志社英学校や同志社女学校を開校したり、東華学校、同志社病院、京都看病学校を開いたりと、教育に尽力していましたが、1890年に48歳で最期に「狼狽するなかれ、グッドバイ、また会わん」なんて素敵な言葉を残して亡くなったそうな・・・。
もしかしたら、新島襄さんがアメリカへ行っていなかったら、クラーク博士が日本に来ることがなかったかもしれないし、「Boys, Be Ambitious(少年よ、大志を抱け)」の名言も生まれていなかったかもしれない。そうだとすると、とっても重要な人物だったと言っていいんでしょうね^^