クラーク博士の前任者 ホーレス・ケプロン

クラーク博士が札幌農学校の初代学長を務めたことはすでに記事で書いていますが、では、その札幌農学校を開学するまでの準備などをしたのもクラーク博士でしょうか?
答えはNOです。札幌農学校の開学について尽力したのはホーレス・ケプロンです。
開拓使時代を顧問として来日し、当時北海道にいた外国人の統領となっていました。その後に来日し、名言を残したクラーク博士がとても有名なため陰に隠れた印象ですが、このホーレス・ケプロンが日本の殖産興業に大きな営業を与えたことは間違いありません。
ここでは、クラーク博士の活躍には欠かせない存在であったホーレス・ケプロンについて少しご紹介したいと思います。
ホーレス・ケプロンは、もともとはアメリカ合衆国の軍人で、マサチューセッツ州の裕福な家庭で生まれ育ちました。
南北戦争で従軍後、アメリカ政府の農務長官であった時に、日本からアメリカにわたっていた黒田清隆の誘いにより、1871年に来日、開拓使顧問となりました。この時のケプロンは67歳!現役の農務長官がその職を捨ててまで、遠く日本・北海道の開拓に参加するという壮大なプロジェクトが始まったのです。
日本では北海道の視察を熱心に行い、多くの事業を推進しました。その内容は多岐にわたり、1875年に帰国する間、母国から農業、工業、鉱業、医学において専門家を日本に呼び寄せ、北海道の開拓に貢献したといいます。北海道の気候上、寒くイネが育たないため、麦をつくることを勧め、パン食を推進しました。この麦作の奨励により、後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)ができたとも言われます。
来日するにあたり、ケプロンは果物の種や苗を持ってきました。今現在、私たちが当たり前に口にしているフルーツは、ケプロンによって日本にやってきたものも多いのです。
魚の加工から缶詰の生産・輸出、馬車道の星美など、ケプロンの進言により発展したとされるものがあります。
そして、「そうだったの?!」と思わず言ってしまいそうですが、クリスマスケーキ!あの生クリームの白い色で包まれた丸いケーキの誕生にも、ホーレス・ケプロンが関わっているようです。
今日の北海道の発展に多くの足跡を残したホーレス・ケプロンですが、来日に向けて説得したとされる黒田清隆と並んで像が建立されています。札幌大通公園の西10丁目にありますので、クラーク博士像とあわせて立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
その後、ホーレス・ケプロンの貢献により美味しくいただける北海道の食べ物も、お楽しみくださいね♪