日本はもちろん、世界中で有名になっている“偉人”はたくさんいます。音楽・スポーツ・発明など、色々な面で活躍し、既にこの世を去っていますが、今も、皆から尊敬されている偉人たち。今回注目する偉人は、誰もが銅像などでも見たことがある「クラーク博士」クラーク博士といえば“少年よ!!大師を抱け”という名言が今でも、学校の歴史の授業などで教わる程、大切にされています。しかし、この言葉の続きを知っていますか^^?実は、このセリフの後に「ライク・ジス・オールドマン」という言葉を発言しているんだそう・・・。その意味とは「この老人、つまり私のように・・・」というもの。そして、この言葉をつなげてみると「みんな元気でやれよ!!こんな私だって頑張っているのだから・・・」という意味になります。なんか軽い感じになってしまいますが、そういった説もあるんですよ~。「なぜ後半部分の言葉がカットされてしまったの~??」と疑問に思ってしまいますが、当時の時代背景と大いに関係があるんだそう・・・。“軍国主義教育”がはびこっていたその当時、上手く都合のいいように意味が訂正され、それがそのまま今の時代まで伝わっているというのです。そう考えると、他の偉人による“名言”も、実は違う意味にとらえられている可能性もありそうですよね!!「少年よ!!大師を抱け」なんて凄くカッコイイ言葉だなぁ~と昔から思っていたので、少しショックを受けてしまいますが、このクラーク博士が“凄いことをしてきた偉人”というのには何ら変わりはないですから・・・^^!!クラーク博士は、明治9年に“アメリカの教育者”として札幌農学校の教頭となっていたことは有名な話ですが、わずか1年でアメリカへと戻って行ってしまいました。しかし!!その短い期間の中でも、五千円札にのっていた“新渡戸稲造”や“内村鑑三”といった人材を育てるという凄い人。そんな人ですが、実は母国アメリカでは“嫌われ者”だったという説も・・・。“理想家”だった博士は、周りの人たちと衝突することが多く、日本から帰った後も“マサチューセッツ大学”の教授となりますが、大学の方針と意見が合わず、辞職することとなります。それからも、金銭面でトラブルを起こし“詐欺師”だと罵られたり・・・。このように調べてみると、色々な説がありますが、現在でも尊敬する偉人として私たちに知られている「クラーク博士」はやはり凄い人!!
Year: 2015
クラーク博士の名言は「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)!」ですが、このフレーズは有名で知ってる人も多いと思います。が、この名言には続きがあるんです。以前に説明した「Boys, be ambitious like this old man(この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ)」とはまた少し違った続きになります。まずはその続きを紹介しましょう。
Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent
クラーク博士といえば「青年よ!大師を抱け」という名言を誕生させた人。というイメージが強くありますよね?今も尚、この言葉は生き続けていますし、博士の銅像が設置されているスポットがあったりと、“これからも忘れてはいけない人”ということが伝わってきますね^^しかしそれだけで、彼のことを詳しく知らない方がほとんどなのではないでしょうか。クラーク博士は、1826年7月31日に、マサチューセッツ州アッシュフィールドで誕生しました。なんと、父は医者。そして、まだ博士が少年だった頃、マサチューセッツ州のEasthamptonに引っ越したんだそう。それから「ウィリストン神学校」に通い、1844年「アマースト大学」へ入学して、順調に4年後卒業しました。大学を卒業したのにもかかわらず、化学と植物学をもっと学びたいがためにドイツの「ゲッティンゲン大学」へ入学したんだそう。その頃から成績はとても優秀だったので、その後はあっという間に大学の教授へと登りつめました。まだまだ若い20代にして“教授”になれるなんて、本当に天才だったことが分かりますね^^教授として、化学を主に教えていましたが、その後“動物学”“植物学”を含め、計3つの専門を教えるという大活躍を果たしました。その後も少しの失敗はありつつも、「マサチューセッツ農科大学」(今のマサチューセッツ大学)の第3代学長に就任するまでに昇格したんですよ~!!3代目にはなっていますが、実際、初代と2代目は開学前に辞任したため、クラーク博士が初代になるんだそう。学長にまで登りつめるも“南北戦争”によって、博士の優秀なキャリアは一旦中断となってしまいます。このクラーク博士、札幌にも訪れたことがあるんですよ~!!数日で帰国した後は、学長を辞任し、会社を立ち上げるが破産したりと、あまりうまくいってない日々でした。その後に“心臓病”を発症し、寝たきりの生活。。。人生の半分は、エスカレートのように“良い方”へと登りつめていたのに、後半は辛い日々だったんですね。結果、59歳という若さでこの世を去ってしまいました。そんな多忙な人生だった博士ですが、1853年に“ハリエット・ウィリストン”という方と結婚し、妻との間に11人もの子供を授かることが出来たんです!凄いですよね。いわゆる大家族です^^しかし、その内3人は生後1年以内に息を引き取ってしまうという可愛そうな事もあったよう。その後、クラーク博士の息子となる“アサートン・クラーク”は、マサチューセッツ農科大学の理事になったり、“ヒューバート・クラーク”がハーバード大学で動物学を研究するなど、父の才能を受け継いで子供たちが活躍することとなります。これからも“クラーク博士”は、私たちの中で生き続けていくんですね^^
「ボーイス・ビー・アンビシャス」(少年よ大志を抱け!)の言葉を残しアメリカに帰ったクラーク博士の故郷はボストン郊外にあるアムハーストです。アムハーストに帰ってからのクラーク博士は必ずしも幸せではなかったようです。
1977年 故郷に帰ってからのクラークの晩年は失意の連続でした。大学を辞任後に鉱山経営(クラーク・ボスウェル社)を始めたが失敗し、倒産をめぐる裁判に頭を悩まされる。
1882年 心臓病で倒れ、病床での生活を送るようになる。
1886年 59歳で病没。(60歳の誕生日目前に亡くなる)
1890年 キャンパス内にあったクラーク邸が焼失、妻や子供たちと住んでいて豪邸だったという。
1986年 クラーク博士没後100年の記念式典が行われた際にクラークメモリアルの計画の話が持ち上がりました。クラーク博士の家があったキャンパスの東側の土地を中心に、日本風の記念庭園を造るというものです。クラーク邸があった土地は小高い丘の上にあり、キャンパス全体を見渡すことができ、丘の周りにはU MASSの学生寮が並んでいます。
U MASSのグリンビー教授は1970年代に姉妹大学提携を結んだ北海道大学との共同製作を提案し、造園を教えている浅川北海道大学助教授と北海道大学出身の造園家・高野文影の協力を得ることになりました。3人の指導のもと、U MASS卒業生のトッド=リチャードソンの設計が選ばれました。
1991年10月17日メモリアルが完成。U MASS総長、北海道大学学長らによってクラーク博士に捧げられました。
メモリアルの周りには円形の黒い壁があり、東側の部分はクラーク邸のシルエットで、西側は北海道大学農学部の建物のシルエットになっています。円形の壁の中はベンチになっていて座ることができ、U MASSのキャンパスに北海道大学のイメージを重ね合わせるように工夫されているものです。
メモリアルの入り口に2つ、さらに中心にも1つ大きい御影石が使われています。中央に置かれた大きい石からは放射線状に出ている大きい細い道がデザインされていて、これはクラーク博士が過去・現在・未来に及ぼした影響を表しているのだそうです。
クラーク博士記念庭園では2000年9月13日に北海道・マサチューセッツ州姉妹提携10周年を記念した式典も行われました。
今なお多くの日本人に知られている「少年よ大志をいだけ」を発したクラーク博士の教えを直接受けた学生達からは数々のすぐれた人材が輩出し、クラークの播いた種は着実に芽を出し続けました。その後、札幌農学校は力強い発展を続け、現在は国立の名門・北海道大学となっています。
クラーク博士はどんな人?何をした人?という問いに答える際、キーワードの一つとなっているのが「お雇い外国人」です。
「お雇い外国人」とは、幕末~明治時代の近代化に向けた時代の中で、欧米の先進技術や学問等を取り入れるために雇われた主に欧米人のことを言います。政府の新産業育成のための政策を指す殖産興業を目的として多くの外国人が来日しました。クラーク博士は「お雇い外国人」の中でも代名詞的な存在です。
明治政府が雇用した外国人の約半数は、イギリス人でした。鉄道技術者で日本の鉄道の導入を指導したとされるあったエドモンド・モレルや、建築家で政府関連の建物の設計を手掛けたジョサイア・コンドルなどが挙げられます。
また、アメリカ人は教育と開拓の分野で多く活動し、フランス人は同じく約半数が軍への雇用だったようです。
雇用された人数がピークに達したのが1874年~1875年(明治7~8年)で、520人ほどでした。その後数は減りましたが、明治年間を通して3000人前後であろうと言われています。
ちなみに、その報酬は大変高額なものだったことが知られており、当時はまだ身分格差が著しい国内賃金水準からみても破格の値段だったそうです。
ここでは、クラーク博士以外の「お雇い外国人」とされる日本の産業の発展に貢献した外国人3人についてご紹介したいと思います。
【エドワード・シルベスター・モース】
アメリカの動物学者で、海洋生物研究のため、東京大学教授として来日しました。ダーウィンの進化論を紹介し、大森貝塚の発見・発掘を行い、日本の考古学・人類学のその後に大きな貢献をしました。また、日本研究家としても知られ、日本美術なども深く研究していたとされます。
【エルヴィン・フォン・ベルツ】
ドイツの医師で、東京医学校の教室して来日しました。つつが虫病などの寄生虫、脚気など広範囲に及ぶ研究を行い、日本の医学界の発展に尽くしました。27年間医学を教え日本滞在は29年にも及びました。日本人女性と結婚し、訪れた草津温泉についての研究にも力を注ぎました。草津温泉が名湯であることが世界的に知られるきっかけを作ったとされています。
【ギュスターヴ・エミール・ボアソナード】
フランスの法学者で、刑法・治罪法・民法を草案しました。当時の日本にとって急務の課題である「不平等条約の撤廃」のため、日本国内の法整備に尽力し大きな貢献を果たしました。「日本近代法の父」と呼ばれています。
クラーク博士が札幌農学校の初代学長を務めたことはすでに記事で書いていますが、では、その札幌農学校を開学するまでの準備などをしたのもクラーク博士でしょうか?
答えはNOです。札幌農学校の開学について尽力したのはホーレス・ケプロンです。
開拓使時代を顧問として来日し、当時北海道にいた外国人の統領となっていました。その後に来日し、名言を残したクラーク博士がとても有名なため陰に隠れた印象ですが、このホーレス・ケプロンが日本の殖産興業に大きな営業を与えたことは間違いありません。
ここでは、クラーク博士の活躍には欠かせない存在であったホーレス・ケプロンについて少しご紹介したいと思います。
ホーレス・ケプロンは、もともとはアメリカ合衆国の軍人で、マサチューセッツ州の裕福な家庭で生まれ育ちました。
南北戦争で従軍後、アメリカ政府の農務長官であった時に、日本からアメリカにわたっていた黒田清隆の誘いにより、1871年に来日、開拓使顧問となりました。この時のケプロンは67歳!現役の農務長官がその職を捨ててまで、遠く日本・北海道の開拓に参加するという壮大なプロジェクトが始まったのです。
日本では北海道の視察を熱心に行い、多くの事業を推進しました。その内容は多岐にわたり、1875年に帰国する間、母国から農業、工業、鉱業、医学において専門家を日本に呼び寄せ、北海道の開拓に貢献したといいます。北海道の気候上、寒くイネが育たないため、麦をつくることを勧め、パン食を推進しました。この麦作の奨励により、後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)ができたとも言われます。
来日するにあたり、ケプロンは果物の種や苗を持ってきました。今現在、私たちが当たり前に口にしているフルーツは、ケプロンによって日本にやってきたものも多いのです。
魚の加工から缶詰の生産・輸出、馬車道の星美など、ケプロンの進言により発展したとされるものがあります。
そして、「そうだったの?!」と思わず言ってしまいそうですが、クリスマスケーキ!あの生クリームの白い色で包まれた丸いケーキの誕生にも、ホーレス・ケプロンが関わっているようです。
今日の北海道の発展に多くの足跡を残したホーレス・ケプロンですが、来日に向けて説得したとされる黒田清隆と並んで像が建立されています。札幌大通公園の西10丁目にありますので、クラーク博士像とあわせて立ち寄ってみてはいかがでしょうか。
その後、ホーレス・ケプロンの貢献により美味しくいただける北海道の食べ物も、お楽しみくださいね♪