「ボーイス・ビー・アンビシャス」(少年よ大志を抱け!)の言葉を残しアメリカに帰ったクラーク博士の故郷はボストン郊外にあるアムハーストです。アムハーストに帰ってからのクラーク博士は必ずしも幸せではなかったようです。
1977年 故郷に帰ってからのクラークの晩年は失意の連続でした。大学を辞任後に鉱山経営(クラーク・ボスウェル社)を始めたが失敗し、倒産をめぐる裁判に頭を悩まされる。
1882年 心臓病で倒れ、病床での生活を送るようになる。
1886年 59歳で病没。(60歳の誕生日目前に亡くなる)
1890年 キャンパス内にあったクラーク邸が焼失、妻や子供たちと住んでいて豪邸だったという。
1986年 クラーク博士没後100年の記念式典が行われた際にクラークメモリアルの計画の話が持ち上がりました。クラーク博士の家があったキャンパスの東側の土地を中心に、日本風の記念庭園を造るというものです。クラーク邸があった土地は小高い丘の上にあり、キャンパス全体を見渡すことができ、丘の周りにはU MASSの学生寮が並んでいます。
U MASSのグリンビー教授は1970年代に姉妹大学提携を結んだ北海道大学との共同製作を提案し、造園を教えている浅川北海道大学助教授と北海道大学出身の造園家・高野文影の協力を得ることになりました。3人の指導のもと、U MASS卒業生のトッド=リチャードソンの設計が選ばれました。
1991年10月17日メモリアルが完成。U MASS総長、北海道大学学長らによってクラーク博士に捧げられました。
メモリアルの周りには円形の黒い壁があり、東側の部分はクラーク邸のシルエットで、西側は北海道大学農学部の建物のシルエットになっています。円形の壁の中はベンチになっていて座ることができ、U MASSのキャンパスに北海道大学のイメージを重ね合わせるように工夫されているものです。
メモリアルの入り口に2つ、さらに中心にも1つ大きい御影石が使われています。中央に置かれた大きい石からは放射線状に出ている大きい細い道がデザインされていて、これはクラーク博士が過去・現在・未来に及ぼした影響を表しているのだそうです。
クラーク博士記念庭園では2000年9月13日に北海道・マサチューセッツ州姉妹提携10周年を記念した式典も行われました。
今なお多くの日本人に知られている「少年よ大志をいだけ」を発したクラーク博士の教えを直接受けた学生達からは数々のすぐれた人材が輩出し、クラークの播いた種は着実に芽を出し続けました。その後、札幌農学校は力強い発展を続け、現在は国立の名門・北海道大学となっています。