クラーク博士の専攻は園芸学、植物学、鉱物学でした。マサチューセッツ農科大学の学長の任期中に、クラーク博士は日本政府からの熱烈な要請を受けて、1876年7月札幌農学校教頭に赴任しました。当時博士は50歳でした。
クラーク博士を紹介したのは、当時アマースト大学に初の日本人学生生として在学していた新島襄でした。
クラーク博士は、マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとりました。教頭として赴任したクラーク博士の上には、名目上は校長がいました。しかし開拓使の許可によりクラーク博士の職名は英語で 「President」 と表記されていました。実質的には校内の全てを取り仕切っていたのはクラーク博士だったのです。
クラーク博士が初代教頭を勤めた札幌農学校は現在、北海道大学となっています。当時はお雇い外国人の一人として赴任したのですが、その影響力は大きく現在にもその功績は残っています。開講したばかりの学校の礎を築いたのは、他でもない、クラーク博士だったのです。
クラーク博士は学校で、専門の植物学はもちろんのこと、その他の自然科学一般を教えました。その際に用いた言葉は英語だったそうです。新しいことを学ぶだけでも、頭を使うのに、それが更に英語となると大変ですよね。今でこそ大学ではそういう方式の講義も珍しくなくなっていますが、当時にしてはとても刺激的だったのだと思います。
しかし、その研究について進んでいる国の言葉で学ぶことは学問においての近道になるのは確かです。学問書を読むにしても、意を決して原文にあたってみるとかなり参考になることがほとんどです。
更にクラーク博士はキリストの教えについても説きました。学生達に聖書を配り、熱心に布教をしたそうです。それを受けて学生達は「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教を信仰するようになりました。
クラーク博士は8ヶ月間札幌に滞在し、翌年の1877年5月に離日しました。この僅かな期間のうちに、クラーク博士は青年達の心を掴み、離さない存在となったのです。そしてフロンテイア精神を植えつけ、偉大なる業績と感化を遺したのでした。