由来観光地

北海道旅行を計画して、パンフレットを見ると必ずと言っていいほど目にするクラーク博士の全身像があります。右手を挙げたポーズが印象的で、まだ旅行に行ったことはないけれど、この像だけは知っているという方も多いはずです。クラーク博士は知名度も高く、この像を見ようと多くの観光客が訪れます。
また、この像の前で記念撮影をすると思わず右手を挙げたくなるという情報も入っています。クラーク博士と同じポーズをして記念撮影をする人は多いようです。未来の方向へ手を伸ばし、遠くを見据えたら、今の自分は何をすべきなのかがおのずとわかってくるような気がします。
クラーク博士の全身像は、北海道札幌市豊平区羊ケ丘1番地の羊ケ丘展望台にあります。 展望台へのアクセスは地下鉄福住駅から北海道中央バス羊ケ丘展望台行きに12分ほど乗り、終点で下車をすると辿り着くことができます。また車を使う場合は道央道北広島ICから国道5号経由で15分ほど走らせると着きます。駐車場もありますので、ドライブの休憩に使って立ち寄るのも良いと思います。
大人一人500円の入場料がかかり、営業時間は時間 9~17時です。ただし、休みは不定休で、営業時間も季節によって異なるので、訪れる際には事前の問い合せが必要になります。連絡先はTEL 011-851-3080 (羊ケ丘展望台管理事務所)です。
この展望台からは、絶景を楽しむことができます。クラーク博士はこの地に赴任して何を感じて何を思ったのか、そんなことを考えながら眺めると、いつもの北海道もまた違った表情を見せてくれます。
羊ヶ丘展望台に全身像が建立される以前は大学構内にある胸像が有名で、多くの観光客がそちらに訪れておりました。そしてしだいに観光客が観光バスで訪れることが多くなり、大学の研究活動に支障が出るとして観光バスの入場が禁止されるようになりました。
しかし札幌観光協会では北海道の開拓のシンボル的存在であるクラーク博士像をより広く全国の人に見てもらうことにより、開拓者精神を後世にも伝えていきたいと考えました。そこでクラーク博士の来道100年、アメリカ合衆国建国200年にあわせて、羊ヶ丘展望台にあの全身像を建立したのです。
 像を作ったのは彫刻家の坂坦道氏です。右手を挙げる独特のポーズは「遙か彼方にある永遠の真理を指し、そこに向かい大志を抱け」との思いが込められているそうです。確かにちょっと、伝わってきます。

今も生きるクラーク博士

帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞めました。そして洋上大学の開学を企画しましたがそれには失敗します。その後は、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げました。ですがその会社も後に破産してしまいます。その後は破産をめぐる裁判で訴えられ、クラーク博士は悩まされました。更に心臓病が発生して寝たり起きたりの生活を繰り返し、厳しい生活を送っていました。そして1886年3月9日、最期は心臓病が原因で息を引き取ることになりました。享年59歳でした。現在、彼はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーに葬らえています。ちなみにクラーク博士は既婚者で、妻ハリエット・ウィリストンとの間には11人もの子どもが生まれました。しかしそのうち3人は生後1年以内に死亡しており、クラーク博士の人生は仕事の面だけでなく、プライベートでも波乱万丈だったと言えます。 そんなクラーク博士、日本で知られるのは札幌農学校時代の顔がメインです。偉大な先生として、今も地元だけではなく、日本中の人々の心に残っています。彼の残した言葉や思想は、後世にも引き継ぐべきメッセージとなって、今も生き続けています。

Boys, be ambitious

札幌農学校で初代教頭を務めたクラーク博士が学校を去る時、あの歴史的な名言が生まれました。「Boys, be ambitious(少年よ、大志を抱け)」、札幌農学校1期生との別れの際に、クラーク博士が贈った言葉がこれです。実はこの言葉、他にも「Boys, be ambitious like this old man(この老人のように、あなたたち若い人も野心的であれ)」だったとする説もあります。前者の方が端的で覚えやすいからでしょうか、一般的に広まっているのはそちらの方ですが、どちらを取っても素敵な言葉ですよね。しかし、この文言はクラークの離日後しばらくは記録したものがなく、後世の創作によるものだと考えられた時代もありました。1期生の大島正健による離別を描いた漢詩に、「青年奮起立功名」とあることを取って、これを逆翻訳したものだと言われることもありました。しかし、その大島が札幌農学校創立15周年記念式典で行った講演内容を、安東幾三郎が記録していました。そして安東が当時札幌にいた他の1期生に確認の上、この英文をクラーク博士の言葉として、1894年ごろに同窓会誌『恵林』13号に発表していたことが判明しました。安東によれば、全文は「Boys, be ambitious like thisold man」の方だとされています。ちなみに『恵林』には、おそらく「n」は「u」の誤植・倒置と考えられますが、「Boys, be ambitions likethis old man」と印刷されています。安東の発表の後、大島自身も内村鑑三編集の雑誌『 Japan ChristianIntelligencer, Vol.1, No.2 』で博士について記述し、全く同じ文章を使ったことが判明しました。ここまでくると、やはりこれは後世の創作ではなくクラーク博士のオリジナルだったと考えられますね。確かに創作と思われてしまうほど、深くて、別れには十分すぎる台詞だなと、思います。でもそれをパッと言えてしまうのが、青年達も強く憧れたクラーク博士なのだと思います。また大島は去り行くクラーク博士の姿を、「先生をかこんで別れがたなの物語にふけっている教え子たち一人一人その顔をのぞき込んで、「どうか一枚の葉書でよいから時折消息を頼む。常に祈ることを忘れないように。では愈御別れじゃ、元気に暮らせよ。」といわれて生徒と一人々々握手をかわすなりヒラリと馬背に跨り、”Boys, be ambitious!”

北海道でしたこと

クラーク博士の専攻は園芸学、植物学、鉱物学でした。マサチューセッツ農科大学の学長の任期中に、クラーク博士は日本政府からの熱烈な要請を受けて、1876年7月札幌農学校教頭に赴任しました。当時博士は50歳でした。
クラーク博士を紹介したのは、当時アマースト大学に初の日本人学生生として在学していた新島襄でした。
クラーク博士は、マサチューセッツ農科大学の1年間の休暇を利用して訪日するという形をとりました。教頭として赴任したクラーク博士の上には、名目上は校長がいました。しかし開拓使の許可によりクラーク博士の職名は英語で 「President」 と表記されていました。実質的には校内の全てを取り仕切っていたのはクラーク博士だったのです。
クラーク博士が初代教頭を勤めた札幌農学校は現在、北海道大学となっています。当時はお雇い外国人の一人として赴任したのですが、その影響力は大きく現在にもその功績は残っています。開講したばかりの学校の礎を築いたのは、他でもない、クラーク博士だったのです。
クラーク博士は学校で、専門の植物学はもちろんのこと、その他の自然科学一般を教えました。その際に用いた言葉は英語だったそうです。新しいことを学ぶだけでも、頭を使うのに、それが更に英語となると大変ですよね。今でこそ大学ではそういう方式の講義も珍しくなくなっていますが、当時にしてはとても刺激的だったのだと思います。
しかし、その研究について進んでいる国の言葉で学ぶことは学問においての近道になるのは確かです。学問書を読むにしても、意を決して原文にあたってみるとかなり参考になることがほとんどです。
更にクラーク博士はキリストの教えについても説きました。学生達に聖書を配り、熱心に布教をしたそうです。それを受けて学生達は「イエスを信じる者の誓約」に次々と署名し、キリスト教を信仰するようになりました。
クラーク博士は8ヶ月間札幌に滞在し、翌年の1877年5月に離日しました。この僅かな期間のうちに、クラーク博士は青年達の心を掴み、離さない存在となったのです。そしてフロンテイア精神を植えつけ、偉大なる業績と感化を遺したのでした。

生い立ち

かの有名な「Boys, be ambitious」の言葉で知られるウィリアム・スミス・クラークは、札幌農学校で偉大な業績を残し、今でも北海道を初めとし、「クラーク博士」の呼び名で日本中から親しまれています。
確かに私も、歴史や英語を習う以前から、というか物心付いた頃には「Boys, be ambitious」という言葉を何度も耳にして、記憶していました。子供心に「ぼーいずびーあんびしゃす」は「少年よたいしをいだけ」だということはわかっていました。ただ、「たいし」が「大志」だということを知る方が後だったので、本当の意味で言葉を理解するのはもっと後のことでしたが……。
ではそのクラーク博士の「Boys, be ambitious」はどのように生まれたのでしょうか。まずはクラーク博士の生い立ちから追って生きたいと思います。
ウィリアム・スミス・クラーク(William Smith Clark)は、1826年7月31日にアメリカのマサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれました。父アサートン・クラークは医師でした。
アマースト大学を卒業し、ドイツのゲッティンゲン大学にて博士号を取得した後、アマースト大学の教授となりました。
南北戦争時には北軍少佐として従軍し、マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長に就任しました。ちなみに初代学長と2代学長は開学前に辞任しています。それにより実質的な初代学長はクラークだったと言えます。