帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞めました。そして洋上大学の開学を企画しましたがそれには失敗します。その後は、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げました。
ですがその会社も後に破産してしまいます。その後は破産をめぐる裁判で訴えられ、クラーク博士は悩まされました。更に心臓病が発生して寝たり起きたりの生活を繰り返し、厳しい生活を送っていました。そして1886年3月9日、最期は心臓病が原因で息を引き取ることになりました。享年59歳でした。
現在、彼はアマースト町ダウンタウン内にあるウエスト・セメタリーに葬らえています。
ちなみにクラーク博士は既婚者で、妻ハリエット・ウィリストンとの間には11人もの子どもが生まれました。しかしそのうち3人は生後1年以内に死亡しており、クラーク博士の人生は仕事の面だけでなく、プライベートでも波乱万丈だったと言えます。
そんなクラーク博士、日本で知られるのは札幌農学校時代の顔がメインです。偉大な先生として、今も地元だけではなく、日本中の人々の心に残っています。彼の残した言葉や思想は、後世にも引き継ぐべきメッセージとなって、今も生き続けています。